用語解説
言語表現の意味
はじめに
言語理論は自然科学と異なり、人間の精神的活動を対象とするだけに、その見方によって様々な説が生まれる。その中でも「意味の意味」については哲学的にも混乱した状況にあるが、意味処理を目指すには、対象とする「意味」の明確化は避けて通れない問題と言える。ここでは従来の意味論とその問題点を示すと共に、著者が現在最適と考える関係意味論を紹介する。
意味論の分類
自然言語を構成する実体としては「対象」「話者」「表現」および「聞き手」の4種がある。「対象」には実在する対象と実在しない観念的な対象があるが、いずれも話者が取り上げたものである。話者はこれを自己の感性の中で、ある見方、捉え方で「認識」し、それを言語の約束(言語規範)に従って超感性的な言語表現に結びつける。「聞き手」は話者と共通した言語規範を手がかりに表現から話者の認識のあり方を見、その認識を通して対象のあり方を知る。聞き手の認識の世界に話者の認識が対応づけられたとき、追体験が行なわれたと称し、「理解した」と言う。
言語では話者の認識と表現の間、及び表現と聞き手の理解の間が言語世界で共通する言語規範に媒介されているのに対して、芸術作品の場合はこれらの関係が直接、感性によって媒介される。この点を除けば言語も芸術も意味論については同様に考えることができる。
さて、以上の立場から意味論を分類する。言語を構成する実体は上記の通り4種存在するから、「意味」をある実体概念で捉えようとする限り「言語表現の意味」は「対象」、「(話者の)認識」、「表現」および「(聞き手の)理解」の4つの実体概念のいずれか、およびそれらの折衷案以外にはありえないことになる。そこで、多少大胆ではあるが、この考えに従って、従来の意味論を分類する。
(1)対象意味論
表現された対象が表現の意味であるとする意味論にはベリンスキーや蔵原惟人の説がある。ブルームフィールド(構造言語学)も実際の出来事が意味だと考えた点でこの説に分類されるが、彼は実際の出来事は人間の持つ科学的知識がもっと豊富にならないと議論できないとして、それ以上の議論を避けてしまった。
対象が現実に存在する時はこの説も一見もっともらしい点があるが、フィクションの世界では解釈が困難となる。そこで、実在する対象については「外在的意味」、観念的対象については「内在的意味」と区別する説(S.I.ハヤカワ)が生まれた。
(2)認識意味論
認識意味論は話者の言いたいこと、話者の頭の中にある理論や思想が意味であるとするものであるから、上記の内在的意味には認識意味論への接点が伺える。
ルフェーブルを始め土屋文明、中野重治が「作品の
質や創造の良否を決めるのは認識の内容だ」と主張す
言語理論上
の実体 |
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対象
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話者
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表現
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聞き手
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言語の
プロセス
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対象
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認識
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表現
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追体験
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反映論 文法論 |
=理解=
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(言語規範) |
意味論
の分類
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[関係意味論] ・三浦つとむ(三浦文法) |
[解釈意味論]
・グライス
・横光利一
・ラッセル
・ヴィトケンシ
ュタイン
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[対象意味論]
・ベリンスキー
・蔵原
・ブルームフィ
ールド
・ハヤカワ
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[認識意味論]
・サアル
・ロック
・ルフェーブル
・山田孝雄 |
[形式意味論]
・ソシュール
・チョムスキー
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[折衷意味論]
・橋本進吉(橋本文法)
・時枝誠記(時枝文法)
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図.1 各 種 意 味 論 の 分 類
るなど芸術作品の場合はこの説を取る人が多い。
山田孝雄(山田文法)は「言語の内容は思想であり、
外相は音声だ」として認識意味論を取っている。サールの説も話者の側に意味を位置づけているが、話者の認識と言うよりも「話者の意図」を取り上げ、これを意味としている。
(3)表現(形式)意味論
ソシュールは言語を生得的な言語の単位とするラング(所記)とその運用であるパロール(能記)から説明し、ラングの中で思想と表現(音)が意味の単位を作っているとして、意味を表現の側から説明している。ソシュール学派によれば、言語から直接受け取るのは思想でなく、音の側面であり、思想は音と結合した透明なものであるから、現実の音声の裏側に結びついた言語の辞書的な意義(本来は言語規範)が意味と言うことになる。
意味論に関する構造言語学の限界を克服することを狙ったチョムスキーは統語的深層構造を仮定しこれを意味と考えた。深層構造が先験的に与えられるものとする点では認識意味論に見えるが、これは言語表現の統語的側面を取り出してそれを意味と考えた点で、やはり形式意味論と見なされる。深層構造意味論が破綻し、二元論に変わった後は表層構造にも意味があるとしており、より表現意味論に接近したと言える。
(4)解釈意味論
言語表現に形式が存在することは疑い得ないが、文字にせよ音声にせよ、インクのシミがあるか空気の粗密波かの違いはあっても、それ以外の何も存在しない。そこに内容が存在するように思っているだけではないかと考えれば、「意味」とは聞き手の頭の中に得られた認識のことだと言う説になる。
ラッセル(論理分析学派)やヴィトケンシュタイン(日常言語学派)は話者の認識を離れ、聞き手の側で意味を解釈しようとした。日常言語学派のグライスは言語規範と「場の理論」を区別せず、「聞き手の行動」を意味と説明したが、聞き手は一人とは限らないし、誰もが同じ行動を取ってくれるわけではない。そこで、前述のサールは、話者の意図を意味と考えるべきだと反論した訳である。
(5)折衷型意味論
以上の意味論の持つ弱点を補う立場から、折衷的な意味論がいくつか提案されている。学校文法でお馴染みの橋本文法(橋本進吉)は、意味内容説に聞き手の理解をも加えて、話者の言っていることと聞き手の理解していることとの共通性に着目する立場から、両者の頭の中にあるものを意味と考えている。しかし、話者と聞き手が通じ合うのは両者が同じ言語規範を手がかりとしているためと考えるべきで、ソシュールと同じ問題を引き継いでいると言える。
ソシュールが本来の言語規範を概念として捉え、この概念と音声との結合単位をラングで説明したのに対して、時枝誠記(時枝文法:言語過程説)は表現対象を概念とした上で、意味は概念などのような実体ではないとして、実体意味論を排した。この点では従来を超える飛躍が伺えるが、意味とは話者と聞き手の双方にある「把握の仕方」だと説明することにより、従来の機能論のレベルに後退してしまった。
新しい意味論(関係意味論)
解釈意味論では与えられた表現の形式から意味が生まれると言う観念的な説明になる。逆に、形式は内容から生まれると見れば、対象意味論か認識意味論となるが、対象も認識もいつまでもそのまま存在するとは限らないし、誤って書かれた文でも意味は正しいと言う困難さがある。
三浦つとむは言語過程説を踏襲しつつも時枝の意味論を修正し、関係意味論を提案した。すなわち、「音声や文字にはその背景に存在した対象から認識への複雑な過程的構造が関係づけられている。このような音声や文字の種類に結びつき固定された客観的な関係を言語の意味という。」と説明している。対象や話者の認識は意味そのものではなくて、意味を形成する実体だとする説明である。これによれば、意味は話者や聞き手の側にあるのではなく、表現そのものに客観的に存在するのであって、表現(音声や文字)の消滅と共に、そこに言語規範によって固定されていた対象と認識の関係、すなわち意味も消滅すると言うことになり、従来の意味論の持っていた基本的な問題点が解決を見たと思われる。
◇ 参考文献 ◇
@オグデン,リチャーズ:「意味の意味」石橋訳,新泉社,1967
Aポルツィヒ:「現代ドイツ意味理論の源流」福本他訳,大修館,1975
BC.フックス,P.ル・ゴフィック:「現代言語学の諸問題」田島他監修,三修社,1983
CF.ワイスマン:「言語哲学の原理」ロボ他訳,大修館,1977
DJ.J.カッツ:「言語と哲学」沢田監修,大修館,1971
E野本和幸:「フレーゲの言語哲学」,勁草書房,1986
Fソシュール:「言語学序説」山内訳,勁草書房,1971
GE.F.K.ケルナー:「ソシュールの言語論」山中訳,大修館,1982
HJ.R.サール:「言語行為」坂本・土屋,勁草書房,1986
IC.レプスキー:「構造主義の言語学」菅田訳,大修館,1975
JApel他:「チョムスキーと現代哲学」井口編訳,大修館,1976
K時枝誠記:「国語学原論」,岩波書店,1941
L三浦つとむ:「認識と言語の理論」勁草書房,1967
M三浦つとむ:「言語学と記号学」勁草書房,1977
[池原 悟(NTT情報通信処理研究所)]