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2013/5/20

『モナドロジー・形而上学入門』, ライプニッツ, 清水 富雄訳, 飯塚 勝久訳, 中公クラシックス

ゲシュタルト心理学の思想を端的に示すと「部分の総和は一つの全体ではない」でしょう. 部分と全体の関係で気になってるのが,数年前に読んだライプニッツの『モナドロジー』. 決して読めないとまでは言わないけれども,素人にはかなり難しい本です.
なんで?と思われるかもしれないけれど,この本を読んで頭に浮かんだのはルソーの『社会契約論』だったりします. ルソーがプロテスタントだったかどうかは知らないけれど,二人の間で同じ考え方が根っこにあるのかも(根拠はなし). 自分の気になったところだけコメントを残しておきます.

プロテスタンティズムで一番特徴的なのは,「個人の自由を前提条件にして,その集合は全体として一つの統一体として現れる」というとこでしょう.
個人に自由意思を認めるのは,原罪観念とセットとなっているとどこかで読んだ記憶があるのだけど,どの本だったか忘れました. そもそもアダムとイヴが知恵の実を食べる前に知恵を持ってなかったら,蛇にそそのかされて食べても罪にはならないですよね. 詐欺の被害者が騙されたからという理由で捕まったりしないですから. だから知恵の実を食べたことが罪になるということは,本当は二人とも知ってて蛇に騙されたふりをして食べたということ,つまり自分の意思で(食べないこともできたのに)知恵の実を食べたから罪なんですね. 明らかに知恵の実を食べる前に知恵を持ってることになるので,プロテスタンティズムは最初から矛盾を孕むことになる,とも書いてあった気がします. ともあれ,原罪観念のためには自由意思を持ってることが必要なんですね.

話が脱線したのでもとに戻します. 「モナドロジー」のくわしい説明は,Wikipediaにでも譲るとして,物質がそれ以上分解不能なモナドから構成されるとすると,人間と社会の関係において個人はモナドでありうるかという疑問が生じます. 読んでると,個々の人間や動物も一つのモナドと言ってるように思えるんですね.
そもそも考えの元になったのは,顕微鏡で植物の葉を見ると,たとえ二つの葉の区別がつかないくらい似ていても,拡大して見ると必ず違いがある,ということらしいです(西洋哲学史 下,熊野純彦). 逆にいうと個々の細胞には微妙な違いが必ずあるけども,その集合としての一枚の葉になると同じ形態となるということです. プロテスタントとカソリックの和解を政治的に目指したライプニッツにとって,個々の人間はプロテスタントとカソリックのどちらを選んでも,全体としては一つの統一体として現れる,という考え方が政治的実現にとって必要だったのかもしれません.

モナドはそれ単体で多様な内部状態を持って自律的に存在し,「窓をもたない」とも書いてありますね. 「モナドは窓を持たない」というのは,「モナドは部分や構成要素を持たないのだから,「外から何かが中に入る」ことはありえず,因果関係や作用は「外的な対応する変化」であって,「内的な何かのやり取り」としては理解できない」(Wikipedia,"モナド"の項より)ということらしいです.
モナド間での作用は,モナド内部から何かが出力されて,もう一方のモナド内部へと入力される といった媒介物の移動では説明できない. では両者の間の作用はどうやってなされるかというと,モナド単体で自律的内部状態を持つのであれば,その自律的活動によって外部状態に変化がもたらされ,やはり自律的な内部状態を持つ もう一方のモナドが外部状態の変化に自律的に対応し自らの内部状態を変化させる(変化させないという選択もありうる),と考えることもできます.
ここまでくると「オートポイエーシス」の単体間作用にそっくりですね. ちなみにマトゥラーナ,ヴァレラの『オートポイエーシス』は3時間で読むのをあきらめました. 私のオートポイエーシス理解は,河本英夫の『オートポイエーシス -第3世代システム-』を通してです.
オートポイエーシスの本では,よくモナドロジーに言及されてるのだけど,実際に読んでみると確かに同じことが書いてある気がします.