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2013/5/20
更新:2013/6/17

『本能行動とゲシュタルト知覚』, 大村敏輔, 九州大学出版会, 1995

コンラート・ローレンツの動物行動学1, 2を,丸2年かけて読むもよく理解できない. 部分部分は理解できるのだけど,全体に一貫する著者の考え方を上手く抽出できない. そんなときに読んだ本がこの本です. 全体を通してコンラート・ローレンツの動物行動論の総括になってます. こういった本のおかげで,一生かけて理解できないような本も,ある程度解釈可能(理解ではないかも)になるんですね.
以下,気になるところをきままにピックアップして要約. 暇を見つけて随時更新します.


まえおき

一方に,意識の心理学や無意識の心理学(深層心理学),他方に行動主義の心理学や条件反射の心理学という二つの極端間に,さまざまな中間型が介在するという事情は,基本的には現在でもさほど変わらない. しかし,日本の心理学は,アメリカのそれと同様に,ほぼ行動主義一辺倒の観がある. かつては自他ともに,わが国を代表するゲシュタルト心理学者と認めていた人たちまでも,いつの間にか「行動主義」を標榜するようになっており,その切り替えはどのような思想的経過を辿ったのであろうか.

「行動主義学者や条件反射学者は,人間のように言葉で自分の意思を伝達することのできない「動物」について,「内省報告」が最初から問題になりえない「行動」だけを,観察し分析しているつもりであろうが,実際には,「賞」や「罰」,「快」や「不快」といった,彼らがタブー視しているはずのメンタルな用語が,行動の因果的説明(動機論)の中にさえ登場している. 動物を手術するにしても,彼らは動物の「苦痛」を和らげるために麻酔をかけるが,このようなことは「苦痛」(心的体験)の現実を動物に認めている何よりの証拠である. 心理学が行動だけで語れないことは,精神分析においても然り.」(メッツガー)

ドイツ語版『心理学ハンドブック』第1巻の知覚を含めた一般心理学は,メッツガーが著述,編集しており,エソロジーとゲシュタルト心理学との緊密な結び付きが随所に説かれている. ところで,ローレンツの思想はフロイト(S.Freud)の『精神分析』とヘルムホルツの『無意識推理説』に深く関わっている. 本著は上記二者の思想を踏まえながら,ローレンツの本能行動論に関する考察を報告するものである.

*注

上のことは20世紀の哲学にもあてはまるようです. よく,イギリス経験論と大陸合理論を対称的に分離して記述してあるのをみかけますが,両者の間で議論の往復運動がありますので,別のものとまでは言えないでしょう. 総括の一つの形を与えたのがカントの"3批判書"なのではないでしょうか. むしろ20世紀以降の哲学の方が,分離状態が当てはまると思います.
ところで,情報工学で参照されるのは,ほとんど英米系の哲学です. 自分はむしろ独仏系の方が好みで,メルロ・ポンティ,ハイデガー,レヴィ・ストロースあたりをポツポツと読んでたりします.ただし哲学者の木田元や東浩紀,その他大勢の人達の解釈を通した理解ですが. 生物学と連動する形で議論が展開されたのは独仏系で,自然と私の興味はそちらに流れたので,英米系で読んだのはウィトゲンシュタインの『青色本』とクリプキの『ウィトゲンシュタインのパラドクス』くらいです. 20世紀前半を代表する哲学者はウィトゲンシュタインとハイデガーだと言っていいと思いますが,英米系哲学者にほとんど無視される状態のハイデガーに,英米系の代表格とみなされているウィトゲンシュタインが 関心をよせていた(『ハイデガーの思想』,木田元より)のは皮肉な話です. 確かに『青色本』は,言語哲学の領域での"現象学"として読めます.

第1章 序論と課題の限定

1.1.動物はなぜそのように行動するのか

イトヨの雄は,鏡に映る自分の姿に対して闘争する. ティンバーゲン(1951)は,その著『本能の研究』の第1章の序文で,このイトヨの闘争行動を引き合いに出して,「動物はなぜそのように行動するのか」という問いが,いかにエソロジーの基本問題であるかを教えている. この「なぜ」は,因果的説明を要求する.
「動物は飢えているから狩りをする」という言いかたを文字どおりに「因果論」と受け取り,「飢え」という「主観的現象」を求餌行動の原因の一つとみなすことは,生理(物的現実)と心理(心的現実)とを混同することになる.
知覚における因果系列の始発項が外部刺激(物理的現実)であることは否定できないが,「心的構え」によっても「物の見えかた」が異なるということも,否定し難い「現象的」事実である. 「注意」するから雑踏の中である人の声が聞き取れる,というようなことは,われわれが日常よく「経験」するところである. しかし,このような言明も,「記述」の域をでないということは銘記しておくべきであろう.つまり,「心的構え」や「注意」が,「主観的現象」(心的なもの)である以上,科学的「説明」としての物理学や生理学の「因果系列」の中に,それをそのままのかたちでは(心的身分のままでは)組み込めないのである.
したがって,行動の内部原因として,「欲動」(動因)を仮定するとしても,それは,批判実在論に立脚した因果的説明の中では,「動力」ないしは「エネルギー」として「物」の次元に登場することになる. エソロジーでは,「欲動」が「本能エネルギー」や「活動特殊エネルギー」と同義に解されているゆえんもこれである.
これに対して,フロイト(1915)のいう「欲動」は,「心的エネルギー」と「物理的エネルギー」(身体的エネルギー)との間をしばしば動揺するが,これも彼の認識論(相互作用説)によるものと考えられる. 「精神」分析においても,「エネルギー」概念が大きな役割を果たしているという点を強調すべきであるが,フロイトの欲動論の詳細については,稿を改めて論ずることにする.

ところで,エソロジストは決して「量」だけを問題にして,「質」を無視しているわけではない. ローレンツは,決して行動主義におけるように,数量化の程度だけを尺度にして,科学の正当性を計るべきではなく,質的考察,とりわけ「構造」研究も,量的研究と同様に重視されるべきだ,力説している. しかも,彼のいう構造とは「知覚ゲシュタルト」なのである.
したがって,ローレンツはゲシュタルト心理学の原理を比較行動学へ適用して多大の成果を収めたエソロジストなのである. このことは,彼のとりわけ次のような著書に明白に示されている. (1)『動物及び人間の社会における全体と部分』(1950),(2)『科学的認識の源泉としてのゲシュタルト知覚』(1959),(3)『動物は主観的体験をもっているか』(1963). つまり,彼は(1)では,ゲシュタルト概念を批判的に考察し,従来タブー視されていた「部分(要素)の加算性」を条件付きながら認めている. (2)では,知覚的恒常性を典型的なゲシュタルト知覚とみなし,その機能の精密さを,多くの具体的事例について述べている.したがって,(2)はきわめて優れた「知覚心理学」のテキストでもある. それを心身問題のコンテクストでもっと平明に論じたのが(3)である.
ところで,ローレンツのこのようなゲシュタルト心理学者としての一面が,日本の心理学者にはさほど知られていないのではないかと思われる. そこで,エソロジー,とりわけローレンツの本能行動説の内実をまず「心理学者向けに」解説する必要があり,その対象となるローレンツの主論文が,「本能概念の形成」(1937)である. まず,この論文を,全般に亙ってある程度詳しく要約しておいた(第2章). 肝要なことは,まずローレンツが本能行動をどう考えたかであって,これを抜きにした考察は公平と客観性を欠くであろう.
以上,要するに,本研究の第1の課題は,エソロジーでは,とりわけローレンツにあっては,本能行動がどのように考えられているか(本能行動の構造論と機能論),その因果論的説明はどのようなものであるか(原因論としての本能エネルギー論)を明示することである.次に,このローレンツの本能行動論とゲシュタルト心理学との連関を考察することが本研究の第2の課題である.