月刊GM研4月号

GM研代表特別講演

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GM研代表特別講演

『ときメモ卒業式 』

今、私はとても幸せな気持ちでこの論文を書いている。この気持ちは文章ではとても 表現できる物ではない。それは十二分に分かってはいるが、それでも私は今の気持ちを 書き残しておきたいという衝動を抑えられない...いや、抑えたくないのだ。
足掛け3年、愛し続けてきたゲームが輝きを失わないまま...
いや、輝きを一層増してその歴史にピリオドを打ったのだから。
温かく優しい光の中で...

「ときめきメモリアル」とはどんなゲームだったのか? そう問われると、少しでも ゲームの歴史を知る者ならば、「恋愛SLGの原点にして最高峰」であるとか、「ギャル ゲーに市民権をもたらした偉大なゲーム」などと評せざるを得ない存在である。ゲーム 史の中でも非常に存在意義のある作品であった事は、少しでもゲーム文化に「志」を 持つ人間にとっては、もはや絶対的な認識となっている。

私も、「ときメモ」がエポックメイキングな作品であった事は十分認識している。 しかし、私はこのゲームを公正な目...いや、他人として評価したくない。誰にどう思 われようとも、私はこのゲームのすべてを掛け値なしで愛してしまったのだから。 愛の前には理も打算もすべて無意味なのだから...

よくこんな声を聞く。「いつまでもときメモグッズばっかり作ってんじゃねえよ、 コナミ」。そんな声を聞くたびに私は無性に腹が立ってしょうがない。そして、次の ような言葉を声を大にして言いたくなる。

「こんなにもサービスしてくれるゲームが他にあるか!」と。

ハッキリ言って、「ときメモ」はビジネスとしては失格である。「失敗」ではなく 「失格」なのだ。成功はしたが、失格なのだ。なぜなら、「ときメモ」はもっともっと もっーーと売れるチャンスがあったからである。
「ときメモ」人気に火がついた95年のプレステ版発売...そこに間発を入れずに続編を 投入。新キャラもバンバン出す...そういった拡大路線を取っていれば、「ときメモ」 とうジャンルは100万本を優に越える化け物ソフトの仲間入りを果していただろう。 ...しかし、「ときメモ」はゲームとしての拡大の道を拒んだ。目の前に落ちていていた 想像を絶する大金を拾わなかった。...つまり、汚れる事を拒んだのだ。

私は常々、「ゲームは売ってなんぼではないが、売ろうとする努力は必要だし、売 ろうとする物の規模に見合った責任を取らなければならない」と言ってきた。ファミ通 の売り上げTop30を何年も見続けていると、ゲームの質と販売本数ははがゆいくらい直結 しないのだと実感してしまう。しかし、そのほとんどが他人事である。実際に触れられ るゲームはほんのひと握りしかないのだから、本当の意味での質は分からないし、その ゲームに思い入れもないから(嫌いと言う感情ではない)、そのゲームが本来持ってい た志しや、そこから見える未来など分かるはずもない。
だが、私は初めて当事者になってしまったのだ。心奪われるまでに熱中し、続編の 企画書を書いてしまう程に志しに共感し、共に未来を見てしまったのだ!「ときメモ」 は私にとってはもはやイチゲームではなくなってしまったのです!!

「ときメモ」はゲームとしての拡大を拒んだ代わりに、ゲーム世界と現実世界間の 距離を近付ける事を目指した。CDドラマや歌手デビューによるキャラクターの魅力の 強化と親近感の向上、津波のようなキャラクターグッズ販売による占有感の高揚... 一見するとあざとい商売にしか見えないが、そこに込められた真意は、愚直なるサー ビス精神だけだ。本気で儲けようと思っているならば、とっくの昔に続編を出していた だろう。でなければ、こんなに力を入れてこんなにも売れない「ドラマシリーズ」を 3作も作らないよ。私は言いたい。 「バッカだなあ...」 言葉とは裏腹に満面の笑みを浮かべながら。

「ときメモ」にはもっとビックになれるチャンスがあったんだ...その想いを私はいつ も抱えていた。頭の上では今の路線で正しかったのだと分かっていても、その想いが いつも心を曇らせていた。この心の曇りを吹き飛ばしてくれたのが「ときメモ」最終作 である、「ときめきメモリアルドラマシリーズVol.3 旅立ちの詩」なのです!

私は「旅立ちの詩」を実際にプレーするまで、これが最終作になる事を信じていなか った...いや、信じたくなかった。大好きだった漫画やTV番組の最終回とは一味違った 感傷が芽生えていた。終る事が信じられないのだ。漫画とかはそれなりの連続性の中で 必然的に最終回を迎えるものだが、それはあくまで作品の終りにすぎない。

だが、「ときメモ」の最終作となると話は別である。終るのは作品だけではなく、 「ときメモ」という世界そのものなのです。仮想の世界であるか、現実の世界であるか は問題ではない。その人にとっては同じなのです。心を占める重さは。ゆえに、「とき メモ」が終るとう事は、私にとって現実世界で全面核戦争が勃発する事と同程度の大事 件であり、最終作となる「旅立ちの詩」は憎むべき作品と言っても過言ではない。 しかし...

冒頭でも述べたが、私は今とてもすがすがしい気分でこの論文を書いている。今は 「旅立ちの詩」を憎むどころか、深い深い敬意と感謝の念で胸がいっぱいである。これ 以上ないという形で私を”卒業”させてくれたのですから!

「旅立ちの詩」を語る前に、「ときメモ」におけるドラマシリーズの役割について定 義しておこう。ドラマシリーズのコンセプトは作品世界の拡大ではなく、ディテールの 強化にある。ゲーム本編では希薄だった登場人物間のつながりを設定する事で、作品世 界はリアリズムを獲得したのだ。ドラマシリーズの象徴ともいうべきキャラクターで ある「秋穂みのり」はその必然からごく自然に生まれたのです。作品世界を外側に広げ るためではなく、作品世界を等身大にするために。ドラマシリーズは「ときメモ」とい う作品世界に時間的連続性を発生させるためにあったのです。

しかし、時間の概念の存在はいつか終る時が来るという事でもある。安易に続編を 重ねる事で世界をどんどん上書きし、作品の時間を「凍らせる」ことで永遠性を獲得 してきた一般のゲームでは、こんなジレンマをプレーヤーが感じる事などありえない だろう。もう上書きできないほどその人の心の中で現実となってしまった世界を好きに なればなるほど、いつか来る別れがつらくなる。皮肉にも、ドラマシリーズとはその 作品世界への愛が生み出したものであり、かつその作品世界を終らせる使者でもある のです。

よく、「風呂敷の畳み方が分からなくなった」という評価をされている作品の話を 耳にする。大風呂敷をひろげすぎて収集がつかなくなり上手に完結させられなかった... これは程度の差こそあれ、どんな作品にも言える事だ。作り手側も受け手側も100% 満足できる終り方なんてありえないのです。もしあったとしても、それはたかだか 100%に満足してしまえる程度の器しか持ち合わせていないという事に過ぎません。 神ならぬ人間には完璧な物は作れないのです。しかし、だからこそ人間は矛盾の中に 未来への可能性を切り開く事ができるのです! 畳み方に上手へタはありません。 大切なのはそこに誠意があるか、愛があるか、信念があるか、この3点に尽きます。

その点では「ときめきメモリアル」は愛に溢れた畳み方をされている。そのあまりの 濃さに混乱を生じる程にね。過去作をすべてコンプリートしているのが前知識として必 須であり、幼児体験に似たようなエピソードがあればなおよろしい。ゲームプレーの 過去、キャラクターの過去、プレーヤーの過去...それらがお互いにリンクしてひとつの 大きな記憶となる。その記憶を「旅立ちの詩」は優しく包み、”幸せ” という名の 想い出として昇華させる。それが ”卒業” なのです。

”卒業” とは、時間の流れを止める事ではない。記憶を想い出に変える瞬間なのだ。 新しい目標へと進んで行くために...いつか記憶は薄れ、想い出はセピア色に脚色されて しまうとしても、”幸せのイメージ”だけは変わらない。

私は決して忘れない。

3年間「ときメモ」とともに歩み育てた”幸せのイメージ”を...

  
  以上をもちまして、卒業の言葉とさせていただきます。

      1999.4.23  私立きらめき高校第46回卒業生代表   保科 裕二

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